日本小6課文:關(guān)于《柿山伏》【久我Masahi的日語課堂】#87

「柿山伏」について(關(guān)于《柿山伏》)

作者:山本 東次郎(やまもと とうじろう)
狂言は日本の古典蕓能です。古典とは、人々の大切な心の財産として、長い間受け継がれてきたものです。そして、それは私達(dá)に、人間とは何かを教え、生き方について考えるヒントを與えてくれるお手本のようなものです。(狂言是日本的古典戲劇。古典作為人們珍貴的精神財富,被長久傳承下來。而且,它像范本一樣,告訴我們?nèi)祟愂鞘裁?,并給予了我們思考生活方式的提示。)
狂言の「柿山伏」は、空腹のあまり、他人の柿の木に登って、勝手に柿を食べてしまった山伏が、その持ち主に懲らしめられるお話です。山伏は厳しい修行を積みましたが、生きている以上、やはりお腹も空きます。多くの力や術(shù)を身につけたと威張っていますが、手品のように食べ物を出すことは出來ません。山伏も普通の人間と変わりないのです??裱预?、特別な人の身の上に起こった特殊な事件ではなく、誰の身にも起こり、誰もが経験しそうな出來事を描いています。見る人々がそれぞれ、自分のこととして考えるとよいのです。(狂言《柿山伏》是入山修行者由于饑腸轆轆,攀登上別人的柿子樹,隨意吃柿子,然后受到了柿主的懲罰的故事。修行者雖然積累了嚴(yán)厲的修行,但只要生存著,還是會餓肚子。雖然修行得來了眾多的能力和法術(shù)而自逞威風(fēng),但是無法像魔術(shù)一樣變出食物。修行者也和普通的人類一樣??裱运鑼懙牟恢皇翘貏e的人經(jīng)歷的特殊的事,而是誰都可能碰到,誰都可能經(jīng)歷的事。觀者們可以將這些事當(dāng)成自己的事情來考慮。)
柿の持ち主にからかわれた山伏は、木の上で、言われるままに、必死になって烏·猿·鳶の真似をします。それは、誰もが、そうした立場になれば自分の罪を覆い隠そうとする姿を、こんな形で表しているのです。この山伏の滑稽な姿から、自分がやった悪いことを認(rèn)めたり反省したりせずに、あくまでも知らないと言い張って誤魔化そうとする人達(dá)を思い浮かべる人もいるでしょう。(被柿主捉弄的修行者在樹上按照柿主所說,拼命模仿著烏鴉、猴子、鷹。站在同樣立場上的話,誰都會掩飾自己罪行的樣子,用這種形式表現(xiàn)出來。從修行者滑稽的樣子,也有人會浮想起不承認(rèn)、反省自己的過錯,堅持聲稱自己不知道來掩飾錯誤的人們吧?)
しかし、狂言は、その愚かさを責(zé)めたり、追い詰めたりするようなことはしません。人間は賢さも愚かさも、みな同じように持っているのです。それを理解していれば、誰もみな、ゆったりと広い心を持って、労り合いながら、仲良く楽しく生きていけると、狂言はいっているのです。(然而,狂言并不會責(zé)備他們的愚笨,也不會對他們窮追不舍。因為人類同時具備著聰明與愚笨。只要對此理解,誰都會有一顆寬闊之心,能夠互相關(guān)心,愉快和睦地生活。)
また、柿くらい食べさせてやってもいいではないかと思う人もいるでしょう。今の日本には食べ物が溢れるようにありますが、狂言の生まれた時代は、そうではなかったのです。柿の実は大切な食料で、柿の持ち主はそれをとても大事にして、毎日見回りに行っていたくらいなのです。それを、斷りもなく勝手に食べられてはたまりません。柿の持ち主は、決して心が狹いのではないのです。狂言は、いつの時代にも変わらない人間の姿を描きますが、そのお話が生まれた頃は、現(xiàn)代と少し事情の違うこともあるのだということも、頭に入れておいて頂きたいと思います。(并且,也有人會覺得柿子這點小東西不妨讓他吃吧。如今的日本食物充沛,然而在狂言誕生的時代,并非如此。柿子是很重要的食物,柿主將此看得很重,重視到甚至要每天去巡視。絕對受不了不打招呼便擅自吃掉柿子。柿主并非心胸狹隘??裱悦鑼懥藷o論哪個時代都不變的人類的樣子,但要記住故事誕生的時候與現(xiàn)代的情況也稍有不同。)

詞匯
懲らしめる(こらしめる):懲罰、懲戒、教訓(xùn)
手品(てじな):戲法、魔術(shù);欺騙手法
覆い隠す(おおいかくす):遮蓋、掩飾
労り(いたわり):憐恤、照顧、慰勞、安慰

作業(yè)
1.讀課文
2.閱讀圖片內(nèi)容:

