日本小6課文:構(gòu)筑和平的堡壘【久我Masahi的日語(yǔ)課堂】#81

平和の砦を築く(構(gòu)筑和平的堡壘)
作者:大牟田 稔(おおむた みのる)
広島市には、一発の原子爆弾で破壊され、そのままの形で今日まで保存されてきた「原爆ドーム」と呼ばれる建物がある。この原爆ドームが、平和を築き、戦爭(zhēng)を戒めるための建造物として、ユネスコの世界遺産への仲間入りを果した時(shí)、私は、建築されてからこの日まで、この傷だらけの建物が辿ってきた年月を思わずにはいられなかった。その年月は、私達(dá)の父母や祖父母達(dá)が生きてきた時(shí)代、そして、社會(huì)が激しく変わっていった時(shí)代と重なる。(在廣島市有一個(gè)被稱作“原子彈爆炸圓頂屋”的建筑,該建筑至今一直保存著被一發(fā)原子彈所破壞后的樣子。這個(gè)原子彈爆炸圓頂屋作為構(gòu)筑和平、警戒戰(zhàn)爭(zhēng)的建筑物,加入到聯(lián)合國(guó)教科文組織的世界遺產(chǎn)中的時(shí)候,我不禁想到這個(gè)傷痕累累的建筑從建造之初一直到現(xiàn)在的歲月。那些歲月是我們的父母和祖父母?jìng)兂錾臅r(shí)代,并且與社會(huì)劇變的時(shí)代所重合。)
「原爆ドーム」は、広島市のほぼ中心を流れる川のほとりに建っている。元々は、物産陳列館として、一九一五年(大正四年)に完成した。ヨーロッパ出身の若い建築家が設(shè)計(jì)した鉄骨·レンガ造りの三階建てで、建物の真ん中には、楕円形の丸屋根(ドーム)が五階の高さに突き出ている。建てられた當(dāng)時(shí)は、小さいながら、一際目立つ建物だったという。(“原子彈爆炸圓頂屋”建在幾乎位于廣島市中心流淌著的河畔。原本是作為土特產(chǎn)陳列館,于1915年(大正4年)竣工。是由歐洲的年輕建筑家設(shè)計(jì)的鋼筋、磚塊制造的三層建筑,建筑正當(dāng)中的橢圓形的圓屋頂突出到五層的高度。建成之初,雖然很小,但卻是格外顯眼的建筑。)
この建物は、広島を取り巻く時(shí)代の流れをじっと見(jiàn)守ってきた。この建物が影を落とす川には、荷物を運(yùn)ぶ小舟が行き交っていたし、夏になると、子供達(dá)が水遊びや水泳を楽しんでいた。また、小學(xué)生達(dá)の絵や書(shū)の作品展の會(huì)場(chǎng)としても、この建物は多くの市民に親しまれていた。(該建筑一直默默注視著廣島的時(shí)代變遷。該建筑的影子所落的河中,搬運(yùn)貨物的小船來(lái)來(lái)往往,一入夏,孩子們?cè)诤永锔吲d地玩水、游泳。并且,該建筑還被用作小學(xué)生們的書(shū)畫(huà)作品展覽的會(huì)場(chǎng),被眾多的市民所喜愛(ài)。)
一九四五年(昭和二十年)八月六日午前八時(shí)十五分、よく晴れた夏空が広がる朝、広島市に原子爆弾が投下された。それは、この建物にほど近い、約六百メートルの上空で爆発した。強(qiáng)烈な熱線と爆風(fēng)が放射線とともに市街を襲った。市民の多くは一瞬のうちに命を奪われ、川は死者で埋まるほどだった。ようやく生き殘った人々も傷付き、その多くは死んでいった。(1945年(昭和20年)8月6日上午8點(diǎn)15分,夏空晴朗的早晨,原子彈投落到了廣島市。原子彈在距離該建筑非常近的約600米的上空爆炸了。強(qiáng)烈的熱線和爆炸沖擊波伴隨著放射線一起席卷了大街小巷。眾多的市民在一瞬之間被奪走了生命,死者多到幾乎要把河填埋掉。好不容易存活下來(lái)的人們也受傷了,其中大部分人死亡了。)
爆心地に近ったこの建物は、忽ち炎上し、中にいた人々は全員なくなったという。建物は、ほぼ真上からの爆風(fēng)を受けたため、全焼はしたものの、レンガと鉄骨の一部は殘った。丸屋根の部分は、支柱の鉄骨がドームの形となり、この傷だらけの建物の最大の特徴を、後の時(shí)代に留めることとなった。(距離爆炸中心地很近的這個(gè)建筑轉(zhuǎn)瞬間燃燒起來(lái),還在建筑物內(nèi)的所有人都死亡了。該建筑幾乎受到了正上方的爆炸沖擊波,雖然全部燒毀了,但是磚塊鋼筋的部分殘留了下來(lái)。圓屋頂?shù)牟糠种?,鋼筋支柱形成了圓頂?shù)臉幼?,作為這個(gè)傷痕累累的建筑物最大的特征在之后的時(shí)代保留了下來(lái)。)
原爆ドームを保存するか、それとも取り壊してしまうか、戦後まもない頃の広島では議論が続いた。保存反対論の中には、「原爆ドームを見(jiàn)ていると、原爆がもたらした慘たらしい有様を思い出すので、一刻も早く取り壊して欲しい?!工妊预σ庖?jiàn)もあった。(戰(zhàn)后不久的時(shí)候,在廣島持續(xù)爭(zhēng)論原子彈爆炸圓頂屋是否要保存還是拆除。在反對(duì)保存論當(dāng)中,還有“一看到原子彈爆炸圓頂屋,就會(huì)想起原子彈爆炸帶來(lái)的慘狀,希望盡早拆除?!边@樣的意見(jiàn)。)
市民の意見(jiàn)が原爆ドーム保存へと固まったのは、一九六〇年(昭和三十五年)の春、急性白血病でなくなった一少女の日記がきっかけであった。赤ちゃんだった頃に原爆の放射線を浴びたその少女は、十?dāng)?shù)年経って、突然、被爆が原因とみられる病に倒れたのだった。殘された日記には、あの痛々しい産業(yè)奨勵(lì)館だけが、いつまでも、恐るべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう—、と書(shū)かれていた。この日記に後押しされて、市民も役所も「原爆ドーム永久保存」に立ち上がったのである。(市民的意見(jiàn)一致轉(zhuǎn)變?yōu)楸4嬖訌棻▓A頂屋的契機(jī)是在1960年(昭和35年)的春天,一個(gè)因?yàn)榧毙园籽∪ナ赖纳倥娜沼?。該少女在嬰兒時(shí)期因?yàn)槭艿搅嗽訌棻l(fā)的放射線照射,經(jīng)過(guò)了十多年,突然,被認(rèn)為是因?yàn)樵訌検芎Φ脑虿〉沽?。在她留下?lái)的日記中,寫(xiě)著“唯有那個(gè)慘不忍睹的產(chǎn)業(yè)獎(jiǎng)勵(lì)館會(huì)一直向后世述說(shuō)可怕的原子彈吧?”市民和政府被這本日記推了一把,大家一起開(kāi)始“永久保存原子彈爆炸圓頂屋”。)
保存といっても、傷ついた建物だけに簡(jiǎn)単ではない。風(fēng)や雨、雪に打たれ、震動(dòng)に曬される原爆ドームには、何よりも補(bǔ)強(qiáng)工事が急がれた。このことが新聞やテレビで伝えられると、全國(guó)から保存を願(yuàn)う手紙や寄付が次々と広島市に屆けられるようになった。その後、補(bǔ)強(qiáng)工事は何度か繰り返され、今の形を保っている。(雖說(shuō)要保存,但是畢竟是損壞的建筑,要保存并不簡(jiǎn)單。被風(fēng)吹,被雨雪所淋、遭到震動(dòng)的原子彈爆炸圓頂屋,首先要趕快加固工程。此事被報(bào)紙和電視報(bào)導(dǎo)后,廣島市不斷收到了從全國(guó)寄來(lái)的祈禱保存的信和捐助。此后,加固工程重復(fù)了數(shù)次,然后保持在了如今的樣子。)
日本が一九九二年(平成四年)にユネスコの世界遺産條約に加盟した直後から、広島では、原爆ドームを世界遺産にしようという動(dòng)きが高まった。そして、この動(dòng)きは、忽ち全國(guó)へと広がっていった。この市民中心の活動(dòng)は、原爆ドームが世界遺産に指定される一九九六年(平成八年)まで続いたのである。(日本在1992年(平成4年)剛加盟聯(lián)合國(guó)教科文組織的世界遺產(chǎn)條約之后,廣島想讓原子彈爆炸圓頂屋加入世界遺產(chǎn)的活動(dòng)高漲。并且,該活動(dòng)馬上就擴(kuò)展到了全國(guó)范圍。這個(gè)以市民為中心的活動(dòng)一直持續(xù)到1996年(平成8年)原子彈爆炸圓頂屋被指定為世界遺產(chǎn)的時(shí)候。)
世界遺産は、人間の歴史に大きな役割を果した文化遺産と、地球上にある貴重な自然遺産を、未來(lái)へ向けて大切に守っていくために、ユネスコと世界の國(guó)々が調(diào)査し、指定していく制度である。エジプトのピラミッドや、ギリシャのオリンピア遺跡など、既に六百か所以上が、世界遺産として手厚く保護(hù)されている。日本では、原爆ドームより前に、姫路城(ひめじじょう)や屋久島(やくしま)などが選ばれている。(為了將對(duì)人類的歷史起到重要作用的文化遺產(chǎn),以及地球上珍貴的自然遺產(chǎn)慎重保護(hù)到未來(lái),聯(lián)合國(guó)教科文組織與世界各國(guó)有調(diào)查后指定世界遺產(chǎn)的制度。埃及的金字塔和希臘的奧林匹亞平原遺跡等,已經(jīng)有六百多個(gè)地方被指定為了世界遺產(chǎn)后精心保護(hù)。日本在原子彈爆炸圓頂屋之前,姫路城和屋久島等被選定為了世界遺產(chǎn)。)
原爆ドームが、世界遺産の候補(bǔ)として審査を受けることになった時(shí)、私は、ちょっぴり不安を覚えた。それは、原爆ドームが、戦爭(zhēng)の被害を強(qiáng)調(diào)する遺跡であること、そして、規(guī)模が小さい上、歴史も淺い遺跡であることから、果たして世界の國(guó)々によって認(rèn)められるだろうかと思ったからであった。しかし、心配は無(wú)用だった。決定の知らせが屆いた時(shí)、私は、世界の人々の、平和を求める気持ちの強(qiáng)さを改めて感じたのだった。(原子彈爆炸圓頂屋作為世界遺產(chǎn)候補(bǔ)接受審查的時(shí)候,我有些許不安。因?yàn)樵訌棻▓A頂屋是強(qiáng)調(diào)戰(zhàn)爭(zhēng)受害的遺跡,并且規(guī)模很小,而且歷史也短,到底能被世界各國(guó)認(rèn)同嗎?然而,我的擔(dān)心是多余的。收到?jīng)Q定的消息時(shí),我再次感到了世界各國(guó)的人們追求和平的深切感情。)
痛ましい姿の原爆ドームは、原子爆弾が人間や都市にどんな慘害をもたらすかを私達(dá)に無(wú)言で告げている。未來(lái)の世界で核兵器を二度と使ってはいけない、いや、核兵器はむしろ不必要だと、世界の人々に警告する記念碑なのである。(慘不忍睹的原子彈爆炸圓頂屋向我們無(wú)言地訴說(shuō)著原子彈爆炸給人類、都市帶來(lái)了怎樣嚴(yán)重的災(zāi)害。該建筑作為警告世界各國(guó)人們的紀(jì)念碑,警告我們未來(lái)的世界不能再使用核武器了,不,不如說(shuō)核武器是不需要的。)
國(guó)連のユネスコ憲章には、「戦爭(zhēng)は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦(とりで)を築かなければならない。」と記されている。原爆ドームは、それを見(jiàn)る人の心に平和の砦を築くための世界の遺産なのだ。(聯(lián)合國(guó)教科文組織憲章中記述道:“戰(zhàn)爭(zhēng)生于人心,因而必須在人們的心中構(gòu)筑和平的堡壘。”原子彈爆炸圓頂屋是為了構(gòu)筑觀者心中和平堡壘的世界遺產(chǎn)。)

詞匯
戒める(いましめる):勸戒、勸告、規(guī)勸;戒備、警戒
一際(ひときわ):格外、分外
炎上(えんじょう):起火、燃燒、燒毀、(大建筑物)失火;在網(wǎng)絡(luò)上的發(fā)言或某事件激起了眾多人的不滿,很多人對(duì)此事發(fā)表評(píng)論
取り壊す(とりこわす):拆除、拆毀
慘たらしい(むごたらしい):凄慘的、殘酷的

作業(yè)
1.讀課文
2.完成熟語(yǔ)練習(xí):

3.閱讀關(guān)于短歌的內(nèi)容:


4.看圖寫(xiě)話:
