AKB48二期生だった大堀恵は22歳の頃が一番貧乏…「18円のモヤシでしのいだことも」
AKB48の2期生、チームKで活躍した大堀恵さん(40)。デビュー當(dāng)初の貧乏生活からAKB48の大ブレーク、卒業(yè)、そして結(jié)婚、出産とこれまでを振り返ってくれた。
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一番貧乏だったのはAKB48のメンバーになった22歳の頃ですね。この話をしている元メンバーもいますが、お給料はみんな最初は當(dāng)時(shí)4萬5000円だったんです。
好きなことをやってるからいただけるだけでもありがたいと思っていましたけど、同い年の友だちが社會(huì)人になり、5倍くらいのお給料をもらっているので格差を感じましたね。
AKB48自體は2005年に活動(dòng)を開始し、私は06年に2期生としてデビューしました。數(shù)カ月は千葉の実家から秋葉原の劇場(chǎng)に2時(shí)間半くらいかけて通ってました。電車代と體がキツく、早めに秋葉原に越したんです。家賃はありがたいことに親が出してくれて。
とにかくお金がないので、食費(fèi)の節(jié)約に楽屋のお弁當(dāng)の余りをもらって帰るんです。実家から通ってる子は帰ってから食べますからね。余りがない日は劇場(chǎng)の近くにある安いスーパーで時(shí)々18円で売られるモヤシを買い、ゆがいてドレッシングかオカカをかけて食べてしのいでました。夜になると半額シールが貼られるお弁當(dāng)もよく買い、翌日のご飯にしたり。
劇場(chǎng)があるドン?キホーテのビルの裏から入る時(shí)、ファンの方が待ってくれているので、私服にも気を使わなきゃいけない。なのに、服を買う余裕がなく、私はジャージーで劇場(chǎng)入り(笑)。
1期生はみなさんオシャレでキレイな私服でしたけど、2期生はほとんどがジャージーで「2期生でよかった!」とつくづく思いました(笑)。秋元才加ちゃんや宮沢佐江ちゃん、大島優(yōu)子ちゃんたちは體育會(huì)系で「ジャージーでいいじゃん」という考え方でした。
物販で寫真とかが多く売れた子はお給料にプラスされて6萬円、7萬円、8萬円と少しずつ上がったんです。すると、気づかないうちにメンバー同士で差がつくんですよ。
急にスタバに行くようになったメンバーがいると怪しんだり?!袱ⅳ?、あの子、お給料上がったのかな」と(笑)。
私はお給料が上がると同じチームKの梅田彩佳ちゃんと月に1度だけ定食屋の「やよい軒」に行きましたね。白米おかわり自由ですから。いつも800円の定食を頼んで。溫かいご飯が食べられて実家を思い出す時(shí)間でした。
劇場(chǎng)での1日3公演が酸素不足になるくらいつらかったのですが、忘れもしないのが09年の「RIVER」という曲ですね。歌うメンバーをよみうりランドで見た時(shí)、「これ、いっちゃう(売れちゃう)よ!」と思いました。私は選抜外でしたから「私を置いていかないでー!」と(笑)。(松井)珠理奈が入ってきた「大聲ダイヤモンド」(08年)もAKB48がブレークすると予感、ゾクゾクと感じました。
すぐに1期生の方たちが単獨(dú)でテレビに呼ばれるようになると、その穴を埋める形で私はたくさんステージに出られたんです。だから、當(dāng)時(shí)はお弁當(dāng)をよくいただけて(笑)。
私自身も単獨(dú)で出始めてはいました?!窤KBINGO!」(日本テレビ系)の企畫で秋元康さんが「大堀めしべというのはどうだい?」と水著みたいな衣裝でソロのシングルを1萬枚売る企畫をくださった。
「どんなキャラでもやります!」と私。セクシー全振りキャラが當(dāng)時(shí)いなかったので、必死でそのポジションにすがりつきました。
秋元さんに言われて今でも大事にしている言葉は「チャンスは1回しか來ないから」なんです。この言葉は今も心に殘ってます。
その後、AKB48のおねえさん版のSDN48も経験。デビューから12年の卒業(yè)までは激動(dòng)でした。卒業(yè)の年に、まさか自分が結(jié)婚するとは思わなかったです。
卒業(yè)まで続けて結(jié)婚したメンバーは私が最初だったように思って、「AKB48が結(jié)婚していいのだろうか」と當(dāng)時(shí)はかなり悩みました。
その2年後に娘を出産。卒業(yè)後も激動(dòng)で。その2年前までは「自分が一番になるにはどうすればいいか」だけで頭がいっぱいでしたが、考え方は真逆なくらい変わり、娘を一番に考えて子育てしています。
今振り返ると、AKB48とSDN48でやりきった感はあります。これからの蕓能生活も「チャンスは1度しか來ない」と思って頑張ります。